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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第2節 再びボロアパート [1]




 霞流(かすばた)慎二(しんじ)(ゆら)を使って唐渓に広めた美鶴の恋の噂は、その後しばらく尾を引いた。毅然と登校してくる美鶴の姿に、噂はガセではないかと言われもしたが、それでも唐渓の同級生たちにとっては受験という現実から少しの間ではあっても気を紛らわせる事のできる貴重な材料であり、あれこれと囁いては愉しんでいる者も多い。ほとんどが嘲笑のネタとして扱われ、中には真偽を確かめようとして、使用人を使って霞流家へ探りを入れようとする者まで現れた。
「でも、霞流の家は知多にあって、こちらの土地には富丘(とみおか)に大きな屋敷が一つあるだけなのよね」
「お住まいになっていらっしゃるのは、先の家長にあたる方と、孫にあたる方がお一人いらっしゃるだけだとか」
「じゃあ、その孫になる方が大迫美鶴の?」
「どうかしら? いろいろ調べたのだけれど、いまいち存在が掴めなくって」
「あら、どうして?」
「どうやら霞流の家のお仕事をなさってはいらっしゃらないようなのよ。あの家は知多木綿で有名なところでしょう? このところの繊維恐慌でもしっかりと生き残っているところがさすがだわ」
「収入が伸びても大企業化したりしないで、必要以上に事業を拡大しなかったところが逆によかったんじゃないかって言われてるんでしょ?」
「でもだからって頑固に地元に籠もっているワケでもないみたいだし」
「えぇ知ってるわ。海外の有名なブランドなどと手を組んだりして勝ち残っているとか」
「そうそう、伝統工芸を扱っている家にしてはかなり積極的に売り込みとかも行っているみたい。企業のパーティーやら集まりなんかにも顔を出されているみたいなのだけれど、どうも大迫美鶴が目を付けているらしい男性は、どこの場所にも姿を出してはいないのよね」
「あら、そうなの? 息子は家の仕事は継いではいないという事?」
「そもそも霞流家は、現在の家長に三人の息子がいるみたいなのだけれど、長男はすでに結婚しているようだし。この長男ってのが絵に描いたような真面目な人間らしくって、浮気や不倫の話はまったく出てこないから知多に居る長男って線は無いと思うわ」
 そこまで調べますか。
「じゃあ、次男か三男ね」
「それがね、どちらの情報もいまいちで」
「ねぇ、そもそもあの駅舎の管理を大迫美鶴に依頼したのは誰なのよ。その男が大迫美鶴の男でしょう?」
「それがね、管理を依頼したのは富丘で隠居している男性らしくって」
「駅舎はご隠居の持ち物って話、私も聞いた事があるわ」
「ひょっとして、大迫美鶴って、ジジィ好み?」
「えぇ、ホント?」
「うわっ キモッ!」
 噂とは恐ろしい。そして女の想像力とは逞しい。その飛び火は、当然のごとく瑠駆真や聡にまで及ぶ。
「あんなファザコン女、やめときなさいよ」
「誰が、何だって?」
「だって、父親が居ない寂しさを金持ちの隠居で紛らわそうとしているのでしょう?」
 どうしてそうなる?
 真偽も確かめずに盛り上がる彼女たちにはうんざり。
 聡に傾倒する女子生徒たちは、これ幸いにとばかりに提言する。
「あんな噂話の絶えない人なんて、やめた方がいいわ」
「お前らが勝手に噂してるんだろう?」
「あらでも、噂を生み出しているのは彼女だわ」
「美鶴は無実だ」
「でも」
「これ以上ウダウダ言ってると、一発殴るぞっ!」
「きゃぁ」
 大袈裟に飛び退く相手を一瞥し、聡は図書室へと入った。
 授業で使用した資料を返しに来たのだ。現代文の教師が、阿部(あべ)という教師に借りたもの。本当は別の生徒が頼まれたのだが、その生徒が別の生徒に仕事を押し付けようとし、その現場を見て割って入った結果、どうしてだか聡が返しに行くハメとなってしまった。教職員室へ行ったらこちらではないかと言われたのでやってきたのだ。
 図書室は生徒でそれなりに混みあっていた。阿部を探す。
 いないな。準備室か?
 小さく溜息をつき、出入り口とは別の扉のノブに手をかけた。ゆっくりと押してみる。鍵はかかってはいないようだ。
 そうだよな。別に生徒立ち入り禁止ってワケでもねぇし。
 資料を片手にドアを押す。
「失礼…」
 します、という言葉は、口の中で霧散した。
「…すわね」
 女性の声だった。阿部は男性教員だ。
 先客か?
 首を伸ばして奥を覗き込もうとする。
 できるだけそっと、物音を出さぬように注意する。もし忙しそうなら黙って出直すつもりだ。見つかって、会話の邪魔をしたなどといった詫びから入るような会話はしたくはない。
 あ、でも出直すって事になると、もう一度ココに来なきゃならないって事になるワケか。面倒だな。俺、忙しいんだよ。このあとは美鶴を。
 などとあれこれ思案している耳に、男性の声が聞こえてくる。
「まったく、二年連続で大迫の担任とは、貧乏くじもいいところだよ」
 聡の全身が凍りついた。
「何か浜島(はまじま)教頭のお怒りでも買うような真似でもしました?」
「そんな覚えはないんだけどねぇ」
 ハハハッと乾いた笑い声が、積み上げられた本の間に白々しく響く。
「しかも、新学期早々にまた変な噂が流れていますしね」
「金持ちの男に貢いでるって話だろう? そのために夜の飲み屋街だかで売春をしているだとか。まぁもっとも、この点については事務員やら他の教員やらを動員して繁華街をパトロールしたらしくって、大迫の姿は見つけられなかったって話だよ」
「見つかりましたら、それこそ大事(おおごと)ですわね」
「退学は免れないだろうな」
「あら、でもそれでしたら、考えようですわね」
 阿部の相手は音楽の教師のようだ。音大で声楽を専攻していたらしく、小さくとも聞き取りやすい。
「退学してしまえば、もう厄介な生徒の面倒をみる必要はなくなりますもの」
「あ、そうだねぇ」
 二つの笑い声が、身体に纏わり付いてくる。まるで腐臭でも漂ってくるかのようで、聡は吐き気を感じた。今すぐにでもこの部屋を飛び出し、校舎の外に出て胸いっぱいに自然の空気を吸い込みたかった。この濁った、腐った空気を吸い込んでしまった肺を、一刻も早く浄化したい。
 だが、身体は動かない。足が、足の裏がピッタリと床に張り付いて、離れない。
 そんな聡に気付く様子もなく、その後二人は他愛のない会話を交わし、音楽教師は、聡が入ってきた扉とは別の、直接廊下へと続く扉を開けて出て行った。
「うぅーん」
 聡が姿を現したのは、そんな間抜けた声と共に阿部が伸びをした時だった。
「おぉ、何だ?」
 突然の存在に、驚いたような声をあげる。
「いつ入ってきた?」
「だいぶ前に」
「だいぶ前? ふぅん、そうか。で、何の用だ?」
 今の話を聞いていたのか? などとは聞かないのだな。それは、聞かれても別に困らない、という事だからだろうか。







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